円い樹とスコップナイト

西洋占星術と共に

忘れられない人の忘れ方

「忘れられない人 忘れ方」

 

一時期そんなワードでよく検索してました。忘れられない人がいたのです。

それも、10年近くも。

 

さすがに、自分、頭おかしいのかな?と思って調べたわけですが、意外にも、同じような経験を語っている記事がたくさん出てきて、ああ~人生にはよくあることなのかと少し安心した覚えがあります。

 

どれぐらい忘れられなかったのかというと、酷い時だと、もう気を抜いたらふとした瞬間に毎回毎度思い出すというのが、起床時にはじまり就寝の寸前まで、時には夢の中でまで、毎日の日課のように延々と続くというぐらいです。

もうそんなのやめたい忘れたいと思いながら、いやだ忘れたくないとも思っているような、脳内は何かの依存症か中毒症状のような状態でした。別に対外的には何もしてません、念のため。

 

 

このことについては、占星術で一通りの試みをしました。

  1. お互いのネイタルを見る
  2. シナストリを見る
  3. (間)
  4. コンポジットを見る
  5. 当時のソーラーリターン、ソーラーアーク、トランジット、プログレスを見る

 

まずやったのは、相手の出生図、ネイタルを見ることです。
ちなみに私はもともと占星術に強い興味があったわけではなく、この件ではじめて興味を持ったようなものです。

とにかく初学者で、右も左も分からなかったので、サインやアスペクトなどの解釈が書かれているサイトや本を漁っては、相手について批判的で辛辣な内容が書いてあればあるほど、鼻息荒くしてメモっていました。ゲスですね。その時の私は、ひどく醜悪な顔をしていたことでしょう。

 

それから次のステップで、相性といえばシナストリというのを見るらしいと知って、ワクワクで図を作ってみるわけです。作ると言っても、ただクリックするだけですが。ネイタルもよく分かってないのに何を読むのかという話ですが、これは「相性がいい配置」だの「悪い配置」だの、見つけては喜んだり嘆いたりしていました。

 

ここまで来るとさすがに冷静になってきて、占星術でこの件を考えることを私は一旦封印しました。私がやっているのは、自分にとっての当たりくじが出るまでおみくじを振り続けるようなものだ、ただの一人相撲じゃないか、バカじゃないのかと。

 

 

それで(間)が空いたのですが、この間も占星術そのものへの関心は途切れながらも続いていました。

他人(周囲の人や有名人)の分析をしたり、もちろん自己分析もしたりして、占星術という枠組みの中で思考を巡らせ検証をし紆余曲折した後に、またあの件について考えてみようと思う時があって、コンポジットやソーラーリターンによって検討をし始めました。

そのころには、初めは気づきもしなかったような部分がたくさん見えるようになっていて、新たな視点が開けたことで、
「こんなに好きだったんだ」
「こんなに憎んでいたんだ」
という、それまで見過ごしてきた自分の生々しい感情に、そこで初めてまともに対面するに至りました。

 そして、占星術のおかげで未練を断ち切ることができました!

 

 



というほど、簡単には終わらなかったです。
先に結論すると、私の考える「忘れられない人の忘れ方」は、= 占星術 ではないです。

 


私が思うに、過去のことに「未練がある」という状態は、自分一人では消化しきれなくて、練りきれなくて、誰かに助けを求めている状態だと思います。

「私ひとりの手には抱えきれないから、だからもう一度、あなたに一緒にいてほしい、そして答えを教えてほしい」と。弱っているので、一人では心細いわけです。

 

 でも、消化できるのは結局自分自身しかおらず、誰にも代わってはもらえません。だから、「忘れ方」という汎用的なハウツーは存在しない。

 

占星術はそういう消化不良の時に、おなかをさすって気を休めてくれる、手のようなものにはなりうるのではないかと思います。誰かがそばにいておなかをさすってくれたって、それは気休めにしかならない。それでも、気が楽になると間接的に消化は促進される。時には変に強くマッサージしすぎて、逆効果になったりもするわけですが。

 

 

消化不良というなら、胃薬という手があるじゃないか、占星術は胃薬になれないのか、とも考えてしまいますが、占星術って薬局に売ってないんです。自分で考えないと使えない、役に立たない。

私が最初の頃にやっていた、拾い読みして「相性いい」「相性悪い」で一喜一憂するようなそれは、ドラッグストアにある胃薬みたいなものかなと思います。でも薬って、一時的にはいいものであっても、常用していると他の内臓を痛めるものです。

 

だから、即効性はなくても、Do It Yourself の占星術でおなかをさすりつつ、自分の感情が消化される可能性を信じて無理せず日々を過ごす、というのが、私の考えるひとつの「忘れ方」です。

 


 

で、そうやって私は忘れられない人を忘れていったわけですが、「忘れた」といっても、文字通りに忘れてしまったわけではありません。

付き合いが長かった分、たまに思い出すことはあります。でも、過去をほじくって自己憐憫に浸ったり、ありえない未来を妄想したりするようなことがなくなって、いろいろある「過去のもの」のうちの一つになったという感じです。


それまで長いこと私は、
「出会えたことに感謝しなきゃ。」
「失敗を糧にして、今を強く生きていくんだ!」

という、「ポジティブな生き方」を自分に強制し、「前向きで、やさしく強い、善良な私」の仮面を盾にせずにはいられなかった。その強い仮面の下でずっと、自分の感情をほじくってきたわけです。

内的な整理ができたことで、「なんかそういう建前っぽいのは、もう別にいいんじゃないですか、だって過去のことなんだしポジティブもネガティブもないでしょ」という気持ちになっていきました。

 


 

 

もちろんずっと占星術のことばかり考えていたわけではなく、いろんな事もあって、占星術の他にもいろんな「手」を使ってきました。手といってもオカルティックなことではなく、普通に思考したり悩んだりして、日々を送ってきたというそれだけのことです。

 

これは占星術ならではだなと思うのは、自分の悩みを消化するのに、縁もゆかりもない人のホロスコープを見て、「わかるよ」と(勝手に)思えたり、自分と比較して俯瞰できたりすることです。

誰にも相談できない、相談もしたくないような悩みがある時でも、世界中に解決法を探しにいくことができるのはすごいことだと思います。しかもその時に考えたことは、それ以外のことに繋げて発展させて、考えを深めていくことができたりもするのです。